アニメエイガ妄想駄文

アニメや映画について思ったことを書いていく予定です。

『キルラキル』『ニンジャスレイヤー』などの復讐劇の展開、というか主人公の条件についての妄想

「ニンジャスレイヤー」で思い出したことが少し。

 ニンジャスレイヤーの主人公、フジキド・ケンジは妻子の仇を討つために戦う。

 そのために彼は容赦なく敵を殺していく。復讐者だ。

 主人公が復讐者といえば、トリガーのアニメ『キルラキル』の主人公、纏 流子(まとい りゅうこ)もそうだった。父親の仇を探して一人、謎の学園、本能寺学園を訪れるところから物語は始まる。 

 『キルラキル』と『ニンジャスレイヤー』、の主人公たちは復讐という、ある種マイナスの動機を持って物語を進んでいく。

 

 この主人公たちは、復讐を果たすために律儀に真面目に復讐をしていく。この二つの物語、仇は理不尽な体制側の人間だ。復讐するために強大な体制に盾つくことになる。

 主人公は予期せず体制と向き合うことになる。ストーリーが進むと、主人公の戦いは単なる仇討という復讐を越え、唾棄すべき体制と搾取される弱者たちの対立を描き出す。

 主人公一個人の倒すべき仇だったものが、多くのものにとっても倒すベき敵になる。

 つまり〝殺しのライセンス〟が発行されるのだ。大義と言い換えてもいい。主人公の復讐が、個人の行動を越えたものになるのだ。

 復讐劇を果たすのは、主人公でなくてはならない。〝殺しのライセンス〟を与えられたのは主人公なのだから。最終的に、この大義を与えられる者こそが、主人公になるのだろう。

という妄想でした。